『散歩で休憩』(190721)

 今年は蚊が多い。休憩する屋根のあるところはめちゃくちゃに蚊が多い。近くに木や草を刈ったごみを捨てているので、そこから来るんじゃないかと思う。

 蚊に刺されないように服を整えて、休憩である。

 休憩して、ふと見ると、カタツムリがすごいことになっていた。


人工の柱の節の渦巻を

頼りに慕う蝸牛かな


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年輪を夢見て雨後の蝸牛



posted by superbird at 18:19Comment(0)散歩

『散歩帰りの空の向こうの御嶽山』(190720)

 さいきんはずうっと曇りで、とかく外へ出ると小雨にあたるといったことのくり返しだった。特に夜になると雨が降ってびしょぬれなんていうこともあった。

 きょうは雨に当たらず、うす曇りのむこうに御嶽山がうっすら見えていた。

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posted by superbird at 17:58Comment(0)散歩

『天国は自然の空気や水がたった一人の世界にあふれ』(190717)

 きょうは地下鉄駅でトイレに入ったら、びっくり、大便が散乱していて、使い物にならなかった。「こりゃあ駄目だな」とショックを受けた。(これで立て続けに二回目だな。)

 なにせ床はもちろん洗面台にも付けて(?)あったのだ。あちこちあるので足の踏み場にも苦労する始末だった。臭うし。無理だな。ひどいな。

 こういう行為が続くということは何を意味しているのかな?
 さっこんよく言われる、たしかに、
「(他)人が苦しむのを見て快感をおぼえる」という人が増えているかなと。

 むかしは、
「人が喜ぶのを見て自分も喜ぶ」というのがあったけれど、さいきんは社会がそして人間が変わり、ということであろう。

 おそらく化学物質とか薬のまんえんで体内汚染が深刻になって、さまざまなホルモンも異常になっているのだろうけれど、
「他者を苦しめることによって快感をおぼえる」という、ある種畜生、すなわち、問答無用の弱肉強食の、弱いものいじめを善とする存在と同列なのかなとも思う。

 畜生の世界は、ふつう弱いものを殺して食べて生き抜くということがあるからだ。人間社会は本音と建前で、建前上は、いろいろいいことを言っているけれど、社会を見れば、そんなことは言ってられなくて、本音ではたしかにいま弱肉強食がまかり通っている。知的に姑息に闇の中みたいに、ブラックボックスのまんえんする暮らしの中で、そういう傾向が増していると思う。

 だからホルモンの異常と手を組んで、腹いせじゃないけれど、不特定多数の人が使うトイレというものを使えなくして喜んでしまうという。
「他者を苦しめることによって快感をおぼえるので」という行動になってしまうのだろう。

 人間の理性や知性を失ったある種畜生になってしまっているような人なのかな?と思う。
(ちなみに関係あるのかどうか、愛知県の一人当たりの借金は東京の二倍だという。)

 きのうは自分の上着が大学に着いたら女の化粧品のにおいがきついので人と話すのが恥ずかしく、辟易とした。もちろん名鉄のシートから付いてきたのだ。「洗濯」と思ったけれど職場で洗濯するわけにもいかないし‥‥。

 種の絶滅が叫ばれ、生物の多様性が失われとか危惧されるけれど、一番の問題は人間が心身の正常さを失って知性もないがしろにされ、真実正しい環境保護なんて、経済の原理によって無視されているからであろう。

 よく動植物がどんどん絶滅していって人間だけになってしまうという人もいるけれど、じっさいは、正常な人間というのはあんがいもうかなりいなくなって、ただ不自然な心身異常な人間(人非人)が増えてきているような気がしないでもない。



人間もレッドリストに見えており



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『授業中に見つけたコガネムシ』(190717)

 授業中、廊下へ出て換気をしようとドアを開けたところにコガネムシがいた。

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 五限目の授業は、いつも部屋(教室)に入ると前の授業からのこもった空気に満ちていて、空気を入れ替えないと間違いなく感染する。生徒たちはけっして窓を開けようとしないので、(前期、これまで開けた生徒は一人だけいた)、わたしが遠慮がちに一つ少しだけ開ける。教室の窓は安全対策なのか少ししか開かないのだ。それから授業の合間に出入り口のドアを少しだけ開け、さらに差しさわりのないときを見計らって、廊下へ出て外をうかがい、廊下の端の外階段へのドアを開けないと、廊下も空気が悪い。

 外階段のドアを開けると、くだんのコガネムシが、時間が止まったように身動き一つせず、踊り場の柵のフェンスに止まっていたのだ。

 きょうは授業中、配布プリントが足らなくてジョギングで講師控え室まで行ってプリントを抱えて再びジョギングを半分だけして戻ってきて、再び見たらまだこのコガネムシは同じかっこうで、時間が止まったように身動き一つせずたたずんでいた。立派である。


黄金虫時々無になり生きており




 授業が終って
二階通路に出て空を見ていく。

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posted by superbird at 22:06Comment(0)仕事

『さいきんは夜になると雨が降る』(190714)

 きょうは晩ご飯のおかずの買い物が魚のホッケ一匹になった。きょうはその半分を塩焼きにして食べる予定だ。280円(税抜き)で高いかなと思ったけれど、日本人の特権、新鮮な魚を食べることにした。

 スーパーで缶コーヒー(アサヒワンダモーニングショット)を飲んでいつものように休憩。適当に苦くて、少し甘さがあって、一口好きな味を堪能。

 新聞は日曜のせいか、文化的な記事が多かった。



珈琲を一口飲んで安らげば

こころの内に平和が広がる



 きょうはこのあとブックオフへ行って、小林一茶の俳句集と西遊記(6)と(9)を買ってきた。200円以下がすべて2割引だったので、立ち読みして気に入って買ってきた。


 晩ご飯を作りながら気づいたことは、いままでというか、かつてふつうに自炊していたころと比べ、二倍以上のお金を払うと、美味いものが食べられるということ。今晩のホッケの塩焼きも西友の豆腐(皆様のお墨付き)も。むしろいままで以上に美味いものが。


posted by superbird at 23:55Comment(0)暮らし

『晩ご飯の買い物をして帰る道(闇に気づいて帰る夜の道)』(190712)


買物は輪廻の闇の人たちに

気づいて帰る夜の道かな



 夜になって家で晩ご飯の準備をして、合間にこの記事を書いていると、買い物でやたらへばりつくように寄り添うように引っ付いてきた人たちが、買い物のあとには「輪廻の闇にいる人たち」と思えた人たちが、観音菩薩の慈悲のもと、いまはまるで一本のくもの糸(芥川龍之介の短編小説)一人が一本のくもの糸で救われようとする人のあとを追ってはい登って来る地獄の人たちのようにも思えた。

 とすれば、こういう人たちから悪しき思いや病んだ気を受けても、夜の(買い物のあとの)気功の時に思ったこと(雑念妄想)と統合してみれば、自分のいますることをだけに進んでいくことが、けっきょくは、輪廻の闇を消し去り、悪しき思いや病んだ気の影響を受けないですむことになるのではと思えてきた。

 自分のいますることをだけに進んでいくことというのは、けっきょくは、過去も未来もない、いましかないということなのだ。




注:芥川龍之介の『蜘蛛の糸』という短編小説は、お釈迦様の自らの行為による(法の下の)どこか気まぐれな救済のように描かれているけれど、仏教では、地獄の人の救済をまかされているのは例えば観音菩薩(特に千手千眼観世音菩薩)である。

 あるいは地蔵菩薩。