桑の実をちょっと口にしていく。感動がない。
桑の実も感動がなくなった。大きな桑の木がこうして枝を広げてよろこばしげに、無数に赤や黒などの実を結んで鳥や人のやってくるのを待っている。まだ若いころはじめて目にしたときには驚いて飛び上がるほどだったのに。それがいまは何の感動もない。たんたんと実を取って試食している。驚きの発見であり出会いでもあるはずなのに、まるでここにあって当たり前のもののようである。当たり前じゃないのに当たり前になっている。
桑の木は人が手を出さなければどんどん育ってこうして自然の恵みをもたらしてくれる。思えばそれがゆえに、当たり前の自然の恵みに出会えることは名古屋で珍しいことである。その上都会暮らしの人間はスーパーなどで食料食品を買ってけっこう旨いものを日々お金を出して調達して来る暮らしが染み付いてしまって、うっかり自然を失っているといっていい。だから野生のというかあるべきそして貴重なもっとも適切なこうした自然の恵みをすっかり忘れているのだ。だからこうして桑の実を試食できることはありがたいことなのであって、きっとそのことは忘れないほうがいいのだ。
桑の実のたわわに出会うよろこびは
雲の切れ目をながめるように
おもむろに自転車に乗り、マントラを唱えて日進へ行く。梅森の八幡社はお年寄りが二人いた。参拝者がいるのははじめてだ。邪魔をしないように遠くから手を合わせて帰ってきた。
お年寄りこそ悩みが多いというものなのだろう。一人はもう帰ってくるときだったけれど、二人目の方はながーくお祈りをささげていた。
神社仏閣などは救済の光であることを願おう。
神社のすぐ外の民家の花。また新しい花である。
オオキンケイギクの花は濃密に咲いていた。
日進の田んぼはいつのまにか水が張られて水鳥たちの食事場になっていた。水の張った田んぼが広がる光景はすがすがしいもので、そこに水鳥たちが来ていればまたいっそう気持ちがやすらぐ。
日進はいつしか花も田も鳥も
季節は初夏の晴れやかさかな