『仕事が終わってきょうもキャンパスで一人休憩である』(170517)

 思えば大学の先生になって今年で四年目になった。世の中が変化しているので、生徒の質が変わるのは当然である。きょう感じたのは、知に対する取り組み方の劣化だった。計算がダメとか、理解力が貧しいとか、そんな一般的な頭のできの悪いというような生徒は、むしろ正常といえる。そしてまだ若いだけに救いようがある。

 きょう気づいたのは、そこそこ点数を取れる生徒の知に対する劣化であった。仕事が終わって嘆きたくもなるのだった。先進国の生徒ではなく、これは新興国で行われているような教育を受けて育ってきたという印象である。

 自然科学に対する取り組みがまったく的外れである。物理であろうと化学であろうと、長年先生をやっていればおのずと身についてくるその物理的化学的あるいは生物学的世界観(自然科学の真実につながっていく)宇宙観のようなものがあるわけであるが、おそらく昨今(今年大学一年の生徒が受けた)少なくとも小中のころの生方には、それがない、あるいはあっても伝える余裕などがなかったと思われる。

 ごく表面的な計算のところだけできればそれでよし(注:これは化学、物理は計算も皆さんしんどい)、それ以外のところには価値がないと生徒は勝手に身体が判断している。成功体験のようになってるのかもしれない。

 表面的な計算などはきっかけを与えるに過ぎない。にもかかわらず、それがすんだらぱったり知のすべてに拒絶反応を起こす。アレルギーみたい。その背景や哲学、知の歴史のような世界からかもし出されてくる自然科学の雰囲気のようなものにはまったく興味を示さない。
「こいつ(先生)またくだらないことを喋りやがって」くらいに思っている。

 おそらく経験した実験や実習のようなものも貧しければ、都会人全般にいえることだろうけれど、身の回りにあまりにも自然がないせいであろう。自然がないだけではなくて、この人間社会(特に企業)は命や自然を破壊したりさげすんだりすることで成り立っていることにも大いに原因があるだろう。できのいい生徒というのは、もしかして命や自然を破壊する側の洗脳のもとにのし上がって来たのではないのかとも思う。そういう傾向はもちろん昔からあるのだけれど、今年は極端である。一年ちがうと、つまり二年生を相手にするともういくぶんちがうので、おそらく今年の一年生の特徴である。

 なげかわしことである。


 仕事が終わってまあ人のまったくいないキャンパスできょうも間食というか、おやつのようなものを食べていく。

 きょうは二つ入りの豆大福ではなくて、これが古いのしか売ってなかったので、草大福になった。朝ローソン100で買ってきた。いつも同じのでいいけれど、日付が古かったので、やはり新しい方にした。

 二つ入りの片方だけ食べる。選択をする。きょうはどちらも同じような形である。いつもは通勤の過酷さを反映して変形しているのだ。

 明日も食べるからな。


二つ入り草大福を取り出して

今日の一つを食べるなりけり



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