『きのうは試験をして今年の仕事は終わった』(180123)

 今年はあと成績表を送るだけである。成績表はもう完成といっていい。今年はなぜか疲れた。さいわいよく眠れるのはありがたいことである。

 たまたまきょうの日経新聞(夕)を見ると、クラウドファンディングで資金を集めて実業的な学習をする学校もたくさんある。動機のひとつに、自分たちの学んでいることが社会とどうかかわっているのかわからないという生徒の気持ちがひとつ書かれていた。教育者は自分たちの教えていることに誇りも尊厳もないのだろうか。

 たとえば基礎的な理科の学習はないがしろにしたまま、ないがしろにしてというのは、言いすぎかな。しかし現実として大学へ来た生徒らを見ていて感じることは、高校で基礎学問である物理や化学をちゃんと修めずして、この化学物質やさまざまな電気製品のあふれかえった世界で、しかも人間は自然の一部であるという現実を理解する手助けを身にまとうこともなく、どうやって正しい生き方の選択ができるというのか。ということである。物理や化学の計算ができればよいなどということを前提にしているようでは理科という教科に誇りも尊厳も生まれはしないということはいえる。

 社会に出れば病人だらけになってしまっている原因もこの辺りにあるのである。学校は人間の存亡を左右する。知性の欠如が社会の姿になってるのである。人間の行動、特に通勤バスやなどを見ていると病気になるように彼らの心のベクトルが向かっている。

 わたしはもう昼ごろから学校へ行くことにして過激な通勤地獄はなくなったし、帰り道だけ中くらいの通勤地獄を味わって帰るわけだけれど、この一年、秋休みはあったけれど、やはり疲れたわけである。しばらくそんな通勤地獄の一端から開放されて療養である。




 

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