『洗濯請負殺人事件(これは小説です)』(190808)

『洗濯請負殺人事件』       



HIROYASU HARA 




      序

 環境問題は十年も二十年もむかしから指摘され、議論され、多額の税金を国民は負担し、ごみの分別、ゴミ袋買い物袋の有料化など、その他暮らしにおいても目に見えないところで庶民はさまざまな犠牲を強いられてきた。
 しかし人間の暮らす自然環境はよくなるどころか、悪化していることは、明らかで、種の絶滅速度の上昇を見てもそのことを痛々しく物語っている。
 自然環境という命にかかわる大きな問題に対して、悪化しているという事実は、庶民は間違った教育でただ税金を払わされているにすぎないといってもいい。自然保護、環境対策などといっても実は経済成長のためのお金であって、人間社会は表向きとは真逆のことを続けている。しかし庶民に限らず人間はただお金を稼ぐことに必死のあまり命に関しては盲目である。

 人間社会は自然から資源を奪い、自然の生き物の生きる場所を奪い、環境を破壊し生き物の命を奪うということでは、ある種の戦争をしているといえる。そのある種自滅的な戦争に参加、あるいは参画するのがいやな人は少なくともどこか落ちこぼれである。




    1

 佐藤巡査がいつもの喫茶店でコーヒー飲んでいると、近くの席の会話が耳に入ってきた。
「上の階の人の洗濯の音がうるさくて眠れないんですよ」
「テレビの音とか聞こえてきます?」
「でもテレビとかはないですけど、昼も夜も洗濯の音がしてるんですよ」
「うちはときどき昼も夜もテレビの音が聞こえてきて迷惑ですよね」
「でしょ‥‥?」
 佐藤巡査が週刊誌に目を落とすと、三十代の一起業家の話が載っていた。
「IPOしてから多くの金融機関が群がってきましたよ」
 どういうことかと読んでいくと、
「新規公開株」すなわち自分の会社が上場することをIPOといい、そのときの二百億円(自社株の売り出しで手にした二百億円)を目当てに金融機関などが群がってきて、儲け話や子供の教育、ライフプランなどなどの提案にたくさんやってきたということのようなのだ。すごいなあ。佐藤巡査は思った。世界がちがうなあ。いっぽうで自分の暮らしはといえば、次の別の記事がよく当てはまった。近ごろ世間では副業が流行っている。民泊、売春、運び屋、セドリなどさまざまな儲け話や、そうした人たちに隣接するかのような人たちの悲惨な暮らしぶり。
「そうだろうな」と佐藤巡査もうなずいた。
 庶民は税金を払ったらいくらも残らないものな。かといって実際問題、オレもそうだが、副業するほど体力があるだろうか、あるはずもなし。しかしそもそもオレが「税金を払ったら」なんて口にしたら「お前の給料はもともと税金だろ」とか言われるし。

 佐藤巡査は喫茶店を出ると一仕事しようとバイクにまたがった。男のくせにママチャリに乗っているやつを引き止めて職務質問して点数をかせぐのも悪くないけれど、弱いものいじめみたいで嫌気が差すというもので、近くの団地を散歩することにした。

 ささやかながら緑の植え込みのある団地内の小道を歩いていると、目の前に一人の女が血を流して倒れていた。
「大変なことが起きた!」
 明らかに事件は今起きたばかりである。遺体の肌にふれるとおぞましく冷たいぬくもりがあった。
「事件発生!」と佐藤巡査は急いで無線連絡した、「事件発生、被害者は女、歳のころは四十前後、体には数ヶ所の刺し傷、出血多量‥‥」

 その遺体は団地の住民で606号室に住む東和という女だった。しばらくしてパトカー救急車などがけたたましいサイレン音を立てて集まってきた。
 尾藤警部補は警部と共に急ぎ足で606号室に入った。
 待ち受けていた佐藤巡査は言った。
「ここは母子家庭で、三人家族のようです」
「早いな」と警部。
「ありがとうございます」
「それでほかに何か分かったか?」
「被害者は家主で娘は家出中、息子は高校に通っていますが今は留守と思われます」
「母娘、息子の三人家族」と尾藤警部補は言った。
「そうです」と佐藤巡査。
 警部は言った。
「それでほかに何か分かったか?」
「ハイ。母子家庭で生活保護のようです」
「うん。怪しい人物は見かけなかったか」と警部。
「いいえ」
「目撃者を探したか?」
「いいえまだこれからです」
 尾藤警部補は部屋干しされた洗濯物を見て言った。
「なにやら洗濯物が多いですな。洗剤のにおいも…」
 部屋には加えて洗濯を待つ衣類からの異臭悪臭もあり。
「消臭剤のニオイも」
「そうだな。香料もひどい。われわれは外へ出る。あとは鑑識隊に任せてわれわれは外で聞き込みだ」
 外に出ると室内の化学物質のこもった空気からいっぺん、ほっとするものがあった。
「佐藤巡査、現場周辺に事件を目撃した人物がいないかは聞いてないんだな?」
「ハイ。いません」
「分かっているな」と警部は言った。「初動捜査が重要だぞ」
「それから」と佐藤巡査は付け加えて言った。「団地の住民の中には被害者の女は頭がおかしい奴というものもいました」
「‥‥」
 ふと見ると、606号室の玄関ドアには外から何か液体をかけたような跡が残っていた。縦に流れたような跡が劣化したくすんだ肌色のドアの塗装の上にくっきりと残っていた。
「これは?」と警部は言った。
「ああそれは」と佐藤巡査は言った。「自治会の人によると『嫌がらせを受けた』と苦情があったそうですが、誰も相手にしなかったということです」
「606号室の東和からか?」
「そうです」
 その跡は玄関ドアおよび玄関前のコンクリート面と一体化し、ここだけうすら汚れたどこか荒廃した雰囲気をかもし出し、近寄りがたく、ほかからの嫌がらせというより606号室そのものの表れのようだった。
 警部は言った。
「もうこんな時間か。いったん署に戻って晩飯だ」
 尾藤警部補は言った。
「いつもながら事件のあった部屋というものは空気が異常ですな?」
 佐藤巡査は言った。
「まったくそのとおりであります」
「周囲から苦情が出るのもわかりますね」と佐藤巡査は続けて言った。「しかし住民によると、本人は『洗濯はしていない』とか、『(柔軟剤の)香料はうちじゃない、どうしてうちだってわかったんですか』と逆にすごまれたということです」
 警部は言った。
「一つウソをつくとまたウソをつかなくてはならん」
 尾藤警部補は言った。
「ウソの積み重ねのあげくの事件というわけですな」
 佐藤巡査は言った。
「団塊ジュニアの事件って、ウソと迷惑行為がごちゃ混ぜの事件とかがやたら多くないですか?」
「それを言っちゃあだめなんだ」と尾藤警部補は諭すように言った。

 私服に着替えようとして尾藤警部補は脱いだ制服から臭う抗菌剤に眉をしかめた。
 佐藤巡査は言った。
「どうかしましたか?」
「いや、606号室の部屋のニオイがわしの制服についとる!」
 佐藤巡査も自分の制服に鼻を近づけて言った。
「おやっ、自分のも同じになっています!」
「これはな」と尾藤警部補は苦々しげに言った。「一度洗っても取れないし、三度洗っても取れないんだ。前にもこういうことがあった!」
「化学物質って怖くないですか?」
「それはいえとる!」

 三人は近くの大衆食堂へ向かった。街角屋の自販機で食券を買った三人はめいめいが別々のテーブルに着いた。警部は食事中事件のこと仕事のことは一つも口にしなかった。


       2

 警部と尾藤警部補、佐藤巡査たち三人が帰宅した息子に会うことができたのは夜の十一時過ぎだった。
「和斗くんだね」
「はいそうです」
 三人は聞き込みを続けたけれど、これといった有力な証言・証拠は得られてなかった。
 警部は言った。
「お母さんが亡くなられたことはもう知っているね?」
「いいえ」
「(そうか)」
 尾藤警部補は言った。
「実はきょう昼過ぎ、なんらかの事件に巻き込まれて亡くなられたんだ。気を落とさないように」
「だいじょうぶです」
 警部は言った。
「きょうは、和斗くんが学校へ行ったのは何時だったかおぼえているかね?」
「十一時ころです」
「それで学校は定時制で、ずっと学校にいたわけだね」
「そうです」
 尾藤警部補はいった。
「それで学校が終ってからは?」
「ネットカフェでバイトして帰ってきました」
「そうか」
 警部は二人に目配せし、尾藤警部補は言った。
「それじゃあお巡りさんたちはもう帰るけど、あしたも学校は行くんだね」
「はい」

 翌日、学校で聞き込みをした尾藤警部補は言った。
「和斗は定時制に通って休みがちですが、出席は足りているようです、ただし事件当日は休んでいました」
「うん。学校にいたという話は嘘だった」
「ネットカフェにもあたりましたが、とくにこれといった交友関係はなく、ライン友だちと遊ぶこともないようです」
「親しい友人はいないということだ」
「そうです」
「うん。母親が頭がおかしいといううわさについてはどうだ?」
「特にそこのところは。娘が失踪中ということは和斗の高校の担任も聞いているようで、そのことについては本人も心配しているようとのことです」

 団地の聞き込みをした佐藤巡査は言った。
「606号室は足音や物音が大きくて周囲から嫌われているようでした。それからかかりつけの医者に聞くと」と佐藤巡査はメモに目を落とし、「死亡した母親はベンゾジアゼピン系の向精神薬、および睡眠導入剤を服用していたようです」
「ベンゾジアゾなんだった?」
「ベンゾジアゼピン系の向精神薬です。つまり精神安定剤です」
「それから」
「息子は発達障害でコンサーラR、インチュニブRという薬剤を処方されているようです」
「コンサーラ、インチュニブ」
「Rです」
「発達障害。それで今は定時制にかよっているわけだな。失踪中の娘については、何かわかったか?」
「――」
「よし分かった。みんな仕事だ」


      3

 尾藤警部補のストーリーはこうだった。犯人は息子の和斗、娘は行方不明。一件落着。詳細は次のようだった。

 被疑者和斗(以下和斗)は母親の常用する睡眠導入剤を事件当日の朝食時ひそかに母親のジュースに混入、眠り込んだところを刺した後、ベランダから地上に投下して殺害。自殺に見せかけるためベランダにスリッパをそろえて置き、和斗は朝の食事をすませいつものように学校へ行くフリをして、学校は休み(本人の弁とは異なるものの裏は取れている)、ゲームセンターなどで遊んで、マックで休憩(店員に確認済み)、その後、ネットカフェでバイト(本人の弁そのまま、裏は取れている)、いつものように晩ご飯もそこですませ、いつものように夜十一時すぎに自転車で帰宅。われわれと遭遇。

 警部は言った。
「動機は?」
「きっかけは部屋の中で母親が始めた副業」
「うん」
「洗濯の請負業」
「かなりな迷惑行為だった」
「そうです。多くの住民からの協力があり証言多数」
「うん」
「洗濯の請負はさっこんの共働き世帯の増加で需要は豊富、SNSで顧客を募り、昼夜、深夜早朝といわず、暇をおしんで母親は部屋の中で洗濯にいそしみ、結果、部屋の中は香料や抗菌剤、洗剤および洗濯物の特有のニオイが充満し、和斗は夜は眠れず、気分も悪く、思い余って犯行に及んだ」
「すべて裏は取れているか?」
「部屋の香料や抗菌剤、顧客の汚れた洗濯物などのニオイによる被害レベルは毒ガスに匹敵」
「うん」
「和斗への職務質問の際、学校へ行っていたとは本人の弁ですが、学校へは行かなかった」
「うん、そうだった。洗濯に関しては」
「副業に関しては、事実を悟られまいとベランダにシートをつけ外から確認できないようにしていましたが、同じ団地内に顧客がいることを発見」
「そうか、でかした」
「顧客の証言もあわせ、東和家の洗濯請負業はまちがいありません」
 クリーニング所は知事への届出および検査、確認が必要。
「不法行為だな」
「そうです。県へは問い合わせ不法営業確認ずみ」
「うん」
「睡眠不足の和斗のいらだちが部屋に充満しているニオイによってピークに達した。ニオイについてはわれわれが当日踏み込んだ時にもそうとうなものでしたが、科捜研は、当日の化学物質の濃度からして人が正常に暮らせるようなレベルではないとの報告をしてきています」
「そうだった。犯行に使った凶器は?」
「台所の包丁」
「そうとうな恨みだな。それで息子は母親を殺して一人で生きていこうと決めたわけだ?」
「和斗が高校進学前は生活保護費がおよそ三十万円。進学と同時に減額されておよそ二十五万、娘が失踪してさらに五万ほど減額され、およそ二十万、先行きに不安をおぼえた結果の洗濯請負業かと」
「短絡的にかそれとも計画的にか(犯行に及んだのは)?」
 尾藤警部補は続けた。
「和斗被告のバイト代は月十五万あまり、和斗は一人になればそれでじゅうぶん暮らしていけると判断、自分一人なら家に金を入れる必要もなく、自由に健康的に生きていけると考えた。ある程度計画的な犯行か…」
「家に金を入れていたのか?」
「そうです。自分が高校生になって減額された生活保護の分かと思われますが、五万円入れていたそうです」
「‥‥」
「また佐藤巡査が現場で被害者を発見した時刻と、ゲームセンターで和斗が目撃されている時刻から逆算して母親が死んだ時刻に和斗が家にいたとして問題ありません」
「そうか。そうすると」と警部は言った。「整理すると、母親が部屋で始めた不法行為、洗濯の請負、それにともなう洗濯の騒音、そしてニオイによる和斗の心身の不調、すなわち健康を脅かされたことで芽生えた恨みがおもな動機。そこにもともとの発達障害があって、一人自由に生きていこうと考えた身勝手な、なかば計画的な犯行、ということか」
「そうであります。発達障害の思春期にはありがちかと」
「睡眠導入剤は?」
「レンドルミン」
「そうか」
「(即効性)」

「いいだろう」と警部は言った。「とりあえず当日の和斗の目撃者を確保、それから発達障害についても信頼のある専門家の話を聞いておけ」
「和斗の発達障害は小学校から有名で、当時の医者によれば、『注意欠陥・多動性障害に分類される』ということです。『過活動衝動性が特徴』で、小6の時には同級生に傷害を負わせ示談になっている事案があります。また部屋の壁や床のへこみ、窓ガラスのひび割れがそれを裏付けてもいます。以上和斗が犯人である考えた詳細になります」
「当日の和斗の目撃者は準備しておけよ、監視カメラの映像も含めて」
 佐藤巡査が言った。
「東和の部屋は足音なのか物音がうるさくて苦情がたえなかったという件ですが、隣の605号室の住民は少し前に引っ越していったほどのようです」
「ふうむ。尾藤警部補、和斗が家を出た後の足取りを周辺の監視カメラ、目撃者を含め、もう一度できるだけ詳細に。それから佐藤巡査、学校関係者に事件前後の和斗の様子に変わったことはなかったか、職務質問だ。相手がちがえばまたちがうことを話すやもしれん。それから引っ越していった隣の605の部屋の住民についてはオレが当たる」
「はい」
 警部は言った。
「何事も基本が大切だ。おのれの個性を生かそうとする仲間がいるが、そうした捜査は派手さがあってうまくいくときもあるかもしれん。しかし妙な癖がついて、いずれ破綻する。警察にはあってはならないことだ。わかったな」
「はい。佐藤巡査は基本を大切にします」
「警察官はセミである」と警部は言った。「長い長い地道な現役時代があって、その成果が日の目を見るのは引退後である」
 尾藤警部補は思った。これは名言だな。警部も大人になった。
「佐藤巡査は基本を大切に、地道な捜査をこころがけます」


      4

 引っ越していった隣室の605号室の住民は今は東京に移り住んでいた。警部が周辺住民に職務質問すると、当時うるさかった606号室の騒音は皆が長く苦しんだものの、いったんは解決され、605号室の住民の引越しはその後で、理由は今から数ヶ月前、娘の高校進学に合わせたものであることがわかった。
 捜査は順調に進んでいた。コンビニやゲームセンター、バイト先のネットカフェの監視カメラの映像とその時刻からして、尾藤警部補のストーリーはゆるぎないものになっていた。佐藤巡査が事件に出くわしたのは当日午前十一時十三分、また尾藤警部補の聞き込みによれば、バイト先では、和斗は常日頃、
「一人暮らしがしたい」ともらしていた。
 犯行に使われた包丁もある。
 ゲームセンターで目撃された和斗容疑者はおよそ十二時前後、足取りを含めて間違いないと思われた。

 事件午前十一時十三分、ゲームセンター十二時前後。

 いっぽう佐藤巡査は定時制高校に行って、担任の先生に話を聞くことができた。別段これといって目新しいことはなかった。しかしそのあと、佐藤巡査は(和斗が好きだといっている)理科の先生を紹介されて話を聞くことができた。
「事件前後、和斗くんにかわったことはありませんでしたか?」
「ぼくの授業は事件後はふつうですか」と理科の先生は言った。
「事件前はどうでしたか?」
「そうですね。事件数日前でしたか、授業中に女の隣の席にきて喋り続けているので、『教科書は?』って聞いたら『忘れました』。そのあとも喋り続けているので『そこ離れるように』といったら『教科書がありません』というので『教科書なんか見んでいい』といったら、そのまま学校というか、ぼくの授業へはこなくなりましたよ」
(教科書なんか見んでいい)
「腹が立ったんですかね」
「腹が立ったのはこっちですけどね」
(教科書がなくて女の隣にきて座ったなら、静かに勉強していろよ)
(喋るなよ)
(授業の妨害するなよな)
(それでも喋り続けるならそこ離れろよ)
(女の教科書なんか見んでいいんだぞ)と。
 先生は続けて言った、
「事件後はふつうに教室にきて座ってますけど」
「和斗くんが、ここだけの話、容疑者の一人になっているのですが。なにかお気づきのことはありますか?」
「ほおっ。母親殺し。そうでしたか」と先生の顔色が蒼白になった。「特にないですね。さっき話した、事件数日前、教科書忘れてきて女の隣にきて喋りまくっていて、先生が注意を向けたら人をなめたようなことをいって人の反感を買うようなことをいってきたのははじめてでしたし。それが気づいたことということもできますか」
 佐藤巡査は言った。
「反抗的な態度でですか?」
「いや。素直な奴ですよ。席を離れてそのあとは黙ってましたからね。ふだんからもともとまあ定時制では目立たない奴です」
「ちなみにそのときの授業の内容は?」
「ええ、化学です、周期表の話でしたね」
「元素の周期表という奴ですか?」
「ええよくご存知で。メンデレーエフですよ。周期律ですから」
「ええ聞いたことあります。授業中によく脱線とかは?」
 理科の先生は言った。
「学校は規則だらけで先生も生徒もストレスです、一歩ひるがえってみれば、本来の教育者は、自らが自らを律するような生徒を育てることという思いがありましてね」
「はあ」
「さっきいったように元素には周期表がありますよね。周期表の元になる周期律、すなわち原子を原子番号順に並べると周期的に同じ似たような性質の原子が表れる。すなわちですよ、原子に対して人間が規則を当てはめるのじゃなくて、原子自らが自由な宇宙の中で自分の性質を表して、美しい周期表を作り出しているんですよ。だからぼくは生徒たちにいったんですよ。人間も社会を維持するには、自らを律することが必要じゃないですかと」
「美しく調和を持って?」
「そうです」
「自主自律の精神ですかね?」
「それはよくわかりませんがね」
 自由に置かれた時、いかにして自ら判断し、正しく行動できるか。そして美しく自己表現できるか。
 理科の先生は続けて言った。
「周期表は化学の世界ではバイブルともいわれてますからね」
「なるほど(バイブル、聖書)」


      5

 佐藤巡査はいつものように喫茶店で休憩しコーヒーを楽しんでいた。コーヒーくらい一日一回楽しみがあってもいい。ここでのお客の会話が事件解決になにか役立つかもしれないからな。そう自分に言い聞かせて週刊誌を開いた。裸の女が目に焼きついた。女の裸も見ないとな。安い給料じゃあいい彼女もできないし、コーヒー一杯四百円弱、昼間のすいた喫茶店で休憩して頭を休める。
 先輩尾藤警部補も息抜きも大切だといっていたしな。なにしろ定年までは長いのである。

 人間の一生はせいぜい百年あまり。メタセコイヤの一生は二千年から三千年。人間は長寿になったといってもジャイアントセコイアの十分の一から二十分の一しか生きられない。人生の長さはメタセコイヤの5%から10%ほどしかない。
 二千年も生きたジャイアントセコイヤからすると、
「佐藤君、人間はあっという間にいなくなるね、そのあっというまをちっぽけな地位や名誉、財産やのために苦痛に満ちた騒々しい一生を過ごさねばならない哀れな生き物たち‥‥」
(と映っている、ということもできる)。


      6

 人間は多くの種を絶滅させてきた。その間に人間の心身の健康はどうなっただろうか。

 GDP神話をよりどころとする現代人はだれもが薬にたよっている。人は皆だれもが薬とともにあり、人は皆だれもがあすの副作用とともにある。といっていい。

 妊娠中に精神安定剤を服用してきた妊婦の子供は発達障害になるという。日本人は薬を除いても人工的な化学物質を推計年平均数十キログラムも体内に取り入れている。増えることがあっても減ることはない。
 香料・抗菌剤・発色剤・着色料・保存料・水や大気の汚染物質‥‥。生産される化学物質は右肩上がりで増えている。

 百年前は一日一種が絶滅していた。絶滅速度は加速度的に上昇し、今は一日一種。人間の金儲けGDP神話によって支えられている現実である。数十年で百万種が絶滅する計算である(IPBES)。

 ニホンカワウソは絶滅した。この先遠くない将来、ツバメという種が絶滅したら人はなにを思うだろう?


      7

 いっぽう警察では、和斗がオレオレ詐欺の受け子であった事件を入手、さらに被疑者の経過観察および健康診断の結果報告を受け、ますます和斗の犯行を確信するにいたっていた。和斗はゲーム中毒で、CTスキャンから脳の萎縮が見られ、担当医から病的な攻撃性が指摘されていた。
「ゲーム中毒は怖いですね」と尾藤警部補は言った。
 2019年5月、WHOはオンラインゲームのやりすぎで日常生活に支障が出る「ゲーム障害」を正式に病気認定した。同時にこの七月、人間社会ではeスポーツと称するスポーツがはやし立てられ、「フォートナイト」の世界大会がニューヨークで開かれ賞金も三億円、2020年東京パラリンピックでは競技種目にと議論されるなど政府は普及にやっきになっている。
「ゲームとは無縁で育ったオレたち世代には理解できん分野だな」と警部は言った。
「警部、わたしたちはいわゆるゲーム世代のはしりですが、就職して仕事一筋の人間にはやはりもう理解できない分野ですよ」と尾藤警部補は言った。「でも『最近の若者は』といえば『年寄りの何とかに聞こえるからいうな』と女房にいわれてますからいいませんがね」
「グチに聞こえるんだな」と警部はつぶやくように言った。「しかし和斗の犯行は間違いないんだ」
「そうです」
 小六のときには同級生に暴力をふるい相手を半年間入院させるといった事件もあった。
「たたけば次から次へとほこりが出てきますよ」と尾藤警部補は言った。
「そうだ」と警部。



      8

 弁護士が和斗に洗濯の副業のことを聞くと、
「夜中もよくやってました」
「和斗くんも手伝ったりしたの?」
「ええ時々やらされてました。腹立ちましたけど」
「うん。香料とか抗菌剤の苦情が団地内であったと思うけれど、気にならなかった?」
「気にしてたらやってられませんし、自分らのほうが香料とかでいえば被害者ですから」
「近所迷惑は考えなかったの?」
「うちの部屋で洗濯しているだけですし、被害があるのは金儲けなんだから当たり前じゃないですか!」
「金儲けはみんなたいへんだ」
 弁護士は親身になって人に寄り添うことが大切である。人に寄り添うことによってこそお互い理解が深まり成長できる。
「言葉を返すようだけど」と弁護士は言った。「人間はみんな一つの日本なら一つの日本の社会の中で暮らしているんだよね。だから時には自分を律することも必要になるんじゃないのかな?」
「わかりますよ。社会が醜いのはいやですから」と和斗は言った。「社会を美しくないと」
「そうか、社会を美しくか」
「そうです。勘違いしないでください。ぼくは人間は自由なんです。社会を美しくするために自分を律するんじゃないんですよ。自由な人達が自由に活動した表れが社会を美しくするんです」
「ということは?」と弁護士は言った。「自由な人は自由にすればいい、自分を律する必要はない、ということかな?」
「そうです」
そこで和斗くんはお母さんを殺していない」
「そうですよ」
『誰かが殺した」
「さあ。だけど人間は自由だから母さんがいなくなって自然に社会は美しくなったってことです」

 受け子の件。
「ところで」
 和斗がオレオレ詐欺の受け子であったことを報道で知った弁護士はたずねた。
「受け子の件は事実なんだね?」
「ああ。あれは、オレは何も悪いことはしてませんよ」
「というと?」
「日本経済をよくするためにはお金のあるところからお金のないところへお金を取ってきて回す必要があるんです。GDPを増やすという経済学ですよ。オレは社会のためにやっただけですから」
 受け子の件は事実だとして‥‥。
「お母さんを殺した件は?」
「やってません。本当に!」
「お母さんが誰かに恨まれていたということは?」
「しりません」
「和斗くんが誰かに恨まれているということは?」
「ないです」と和斗は言った。「オレは社会やむしろ世界のために考えて生きてるんです。しかし母さんは自分のことしか考えないんです」
「というと?」
「オレは『貧困で一日一ドルで暮らす人たち』を救うために毎年二千円寄付しているし、オレオレ詐欺の受け子にしても日本経済のためにお金を回す役を買って出ているだけだからです」和斗は続けていった。「母さんは金儲けするにしてもオレたちを含め、むかしから周りの人を苦しめることに喜びを見出しているんです」
「そうだろうか?」
「そうですよ。母さんはむかしクリーニング屋で働いていたんですけど、こっそり悪さしてクリーニング屋がつぶれて喜んでましたし‥‥。同じ副業でも外へ働きに行けば社会はよくなるのに、ネットでも何かできたんです。でも母さんはしないんです。母さんはわざわざ部屋でクリーニング屋を始めて近所から苦情があったり自治会の人から注意されるとそのたびに夜じゅう徹夜で洗濯をするんです。朝まで洗濯機を回して満足する奴なんです。オレとはちがう人間なんですよ」
「うん。たしかにお母さんのしていることはおかしいよね」
「おかしいかどうかしりませんが。あいつは死んでよかったんですよ。日本社会はよくなったんですから」
「そうか。ところでお母さんは毎日ゲームしていたの?」
「あの人は一日一食。ゲームしているか寝ているかですよ。洗濯機は勝手に回そうと思えば回りますから」

 周辺住民の恨みがあったにしても、(警察の情報によれば)すべてアリバイがある。
 最後に母親と隣607号室の男との不倫について和斗に聞くと、
「よくわかりません」


      9

 日本社会に冤罪は五万とある。はたして母親の自殺という線は考えられないだろうか。定時制高校の理科準備室で理科の先生は思った。宇宙は自由である。社会の一員として生きる人間は宇宙の中の自分を知っているだろうか。人間は育ちや教育の中で本来の自分の姿に盲目である。

 先生は部屋の窓から空をながめた。なんの変哲もない空だけれど、有害物質に満ちている。有害物質に満ちたこの空が人間にとっては救いにもなるのだ。




[終り(これはフィクションです)]




  [参考]


   序の注

 環境問題が古くから変わらず同じように議論されているということについて。たとえば、11年も前の雑誌『中央公論』2008年7月号に、
「迷走する、地球温暖化大論争」という記事が見えている。

中央公論2008年7月号.jpg




   6の注

 数十年で百万種が絶滅する計算。
 IPBESとは、世界132カ国の政府が参加する「生物多様性及び生態系サービスに関する政府間科学政策プラットフォーム」科学と政策の統合を目指す国際機関。


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