『質素倹約とかがどこか嫌われている社会なのかもしれない』(200619)

 きょうは雨が降った。夜の六時ころからやむという予報だった。きのうすき家でうな重の特盛を買った。ところが「ご飯が並」だったので一言、「この前はもっと大きかったよ」(器のこと)というと店員は、「人によってちがうみたいです」と受け答えた。

 そういうことじゃないんだよな。(まかないの)人によって量が違っては困るんだよな。家に帰ってHPで調べたらたしかに「うな重の特盛」は「ご飯が大盛り」と書いてあった。

 なんなんだこれは。と家に帰ってまたしてもいやになった。

 きょうはそれでちゃんと写真も撮ってあるしレシートも保管してあるし、特盛の印字された小さな容器もあるし、返金でもしてもらおうと思ったけれど、
「たったそのことのために遠くまで自転車で走っていくのか?」と思うとうんざりしてしまった。

 けっきょくそんなことはしなかった。

 ときおり、けっきょく店員は、わたしが「この前はもっと大きかったよ」といって、「同じ商品で量が違ってはいけないのだ」ということが理解できなかったのだ、そういう「違法」ともいえる事実を理解できなかったのか!などと情けなくなった。

「やはり日本の教育レベルは下がりっぱなしだ!」と納得して、仕方なし笑った。

 同じ商品を買う。しかしまかないの人が違うと同じお店でも違う商品を出す、それが当たり前な社会になってしまったのだ。バカ言えと。

 きょうは元気がないので、あまり活動しなかった。

 わたしたちはお金を無駄にすべきではないのだ。非常勤の先生の稼ぐお金はあぶく銭ではないのだ。日銀がやたら緩和するのはどこかあぶく銭を世にばらまいているといえる。

 人は汗水たらして稼いだお金は大切に使おうとする。いっぽうウォール街のようなあるいは政治家の錬金術や日銀やそこに群がる短期の投資家たちの魔法のような金融で稼いだあぶく銭は、派手に散財されてしまうものである。

 世の中はあぶく銭が増えすぎたということもできるのだ。わたしたちはごく少数の人たちだろうか?

「お金に色がついている」ということもできるこの発想は「メンタル・アカウンティング(心の会計)」(リチャード・セイラー、ノーベル経済学賞受賞者)というらしい。

 雨が降って相手がわたしの話を理解できたとしてたった数十円くらいの差額だけれどそれを得ること無駄にし放棄して、心ふさぐわたし。しかし世の中は、それを当然とするかのようにできている。

 国はまず大目に税金を取り(血と汗の結晶的な貴重なお金を)、あとで民に還付金として返却し、(タナボタ的なお金に変化させ)散財させようとしている。


泡銭の溢れる街に節約の

肩身が狭い窮屈さかな




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