『きょうは仕事が三つあったけれど救われた感じもある』(200629)

 仕事前の散歩。

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 近所のおばあさんに出会った。
「お出かけですか?」というと、
「ちょっとそこまでマッサージに行ってきます」という。
「そうですか」とわたし、「この前足を骨折されていたんで(心配してたんですが)、治ったんですね」
「ええ。これからマッサージ屋さんでリハビリです」という。
「そうですか」
「暑いですね」とあいさつされた。
「ええ。きょうは日が照ると暑くなるそうですね。31度の予想でしたよ」

 おばあさんは元気に歩いて行かれた。常に明るく生きておられる姿は大したものである。尊敬に値するのではなかろうか。数々の不幸があって、あの方は苦労が多いことはわかっている。それなのに、いやそれだからこそ明るく生きるすべを学んできたのであろう。

 でも骨折は怖いな、と骨折をしたお年寄りに出会うと思う。


 ブランチの山菜を探しながら行く。仕事なのでゆっくりは歩いていけないのだけれど、公園の中を見ると、若い人が平日なのにとても多いのが不思議である。さいきんは年寄はあまり歩いていない。いわゆるいい若い者が平日の昼前に仕事もせず、たくさん散歩している。その光景は新型コロナによる社会変化の表れといっていいのか?

 わたしは非常勤でしかももう引退してもいいような年だし、仕事が午後からでも(ありがたいことに)十分年の割に働いているといえる。どうしていい若い者が、この時間に働かず散歩などしていられるのか。テレワークでも遊んでいられる時間はそんなにないんであって、不思議である。

 これって国にとっても本人らにとってもけっこうしんどいんじゃなかろうか?


 順調に三つ仕事を終えた。

 仕事を終えて、やはり食事前の散歩が必要だった。食欲がない。

 歩いていてふと思ったのは、たとえ事務方(上の人)にとっては評価が悪くても、自分は生徒に対してできることはしっかりやっているのだ。思えばきょうもあれだけたくさんの生徒から授業が終わるたびに感謝されている。

 わたしの評価が悪いというより、政治闘争のようなことが大学内にあって、上の人(トップ)が変わったら扱いが一変したということの方が正しいのではないか? 客観的に見ると、そう思えるのだけれど(真実は知らない)‥。

 わたしだけでもないけれど、同期で採用された人、同じ高校から採用された人、言うべきではないだろうけれど、――まあ、これで一番うまくいっているので、結果的にわたしは感謝している。すべての人に感謝していれば(知らぬが仏的)間違いがないといえる。

「自分でおかした悪が自らを汚す。
 悪をおかさないならば、自らが清まる。」

 という原始仏典の言葉があるけれど、この「悪」がまるでいろいろに姿を変えて(現代人の)心を汚している。悪とは口にする食べ物もそうなりうるし、口にする言葉もそうなりうる、想念もそうなりうる。欲望の結果あるいは知識の結果、いろいろな姿になって心を汚してしまうのだ。


 何気ない足元の花を見て行く。

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 タイサンボクもまだ花が健在だ。

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 散歩帰りにはだれも見向きのしないような花をたくさんつけた雑木の花を見て行く。

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 アルボムッレ・スマナサーラという仏教徒の方が、
「人間はご飯のように口に入れて食べるものだけで生きているのではなく、心の栄養で生きている」というようなことをおっしゃっていたけれど、どうやらきょうは心の栄養で元気である。

 そうでなかったら通勤地獄がないので徐々にサプリをやめたこともあるかもしれない。(五木寛之さんも「ああいうのはなんか好きじゃない」とおっしゃっていた)

 食事もテレワークに合わせて変えてきたのと、体質改善を心掛けて半年以上かな、(大学の先生になってから特に時間がなくて食事がひどかったのを)、ようやく体の何かが変わってきた気もする。

 例えば、
「何年もファーストフードを食べていた人がベジタリアンになっても二か月や三か月で体質が変わるわけではない」という。

 ファーストフードなんてめったに食べなかったけれど、惣菜とか、売っているお弁当とかはどうしてもけっこう長く口にしていたので、食品添加物とかなにか、ジャンクフード的ではあるので、体をもとのように戻すには、長いことかかるのである。


花を見て心豊かになる日暮れ




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