『臨済録を読めば(示衆より)』(200403ころの夜のベッドで)

 臨済に臨済いわく菩提を問えば。


 菩提に実体はなく得る者はなし

 心は転変そのままに

 憂いも喜びも生じることはなし






注:これがわかった者は、
「菩提の境地を体現している」といえる。

 なお、菩提とは、
「仏の悟りの境地」である。

参考、岩波文庫『臨済録』p150あたり。

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『寝る前に法華経を数分ばかり』(200304深夜)

 法華経を読んでいて次々「さとり」に到達する、また次々仏(仏陀)が誕生する場面はいかにも、心が壮大で明るくなる。


法華経は次々「さとり」に到達し

次々仏になる人ばかり




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『法華経の方便品で明かされる仏陀の言葉の威力』(190817ころ~20)

 寝床で寝る前に読むせいか、何度も読まないと複雑である。とにかく、よくいわれているようなことがまちがいなく疑いなく、みんなの前で起きるのだぞという話があって、仏陀は詩を唱えるのである。

 こうして以心伝心、仏陀の前で縁あって話を聴くことのできるものは、みんなすべて悟りに到達してしまうのである。



法華経や仏の威力偈一頌



 たとえばの話、法華経の中で仏陀は、
『お前たちは未来において人々の幸福を願い、人々を憐れむ仏となるであろう』という。
 これを聞いたものはみな喜びの花が開く。おそらくこれが絶大なる以心伝心の始まり発端、一つのみそである。

 そして、
「この広大な教えを説いた経典を広めよう。この経典を聴いた人は仏の弟子である。この頌(偈ともいう)の一つでも心に留めるものはすべて悟りに到達すること疑いがない。」という。

 仏陀は韻文(日本語訳によっては漢詩)でもって(詩の)頌(じゅ)を唱える。言語を絶する悟りの言葉である。






注:頌(じゅ)、偈、偈陀、すべてサンスクリト語のゲーダ。(梵)gāthāの訳。
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『法華経を読めばこの世は仏国土』(190814)

 法華経方便品を読めば、地上は過去も未来もまるで仏国土。

 仏教でよくいわれるのは末法の世という思想(末法思想)である。いまはもちろん「釈迦の死後1,500年(または2,000年)以降の時期」であり、いわゆる「末法の世」といわれる。「仏の教えのみが存在して悟りに入る人がいない時期のこと」である。

 ところがしかしながら法華経(方便品)を読めば、(未来において)完全なる悟りに到達した過去からの無数の如来はこの世間を憐れみ、教えを説き、この世の人たちは親しく正しい教えを聞き、なんと、すべてこの上なく完全な悟りに到達するというのである。


末法といえども無数の仏の世



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『法華経上巻を読む』(190806)

 法華経は過去二回は読んで、下巻には観音経があるので、何度か読んだ。今回(先日書いたとおり)上巻を買ってきて、序品をよく読んでいる。

 上巻は久しぶりなので、こういうことが書いてあったのか、なんて初心者みたいな発見がある。


法華経や仏の光如来の世



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『晩ご飯の買い物をして帰る道(闇に気づいて帰る夜の道)』(190712)


買物は輪廻の闇の人たちに

気づいて帰る夜の道かな



 夜になって家で晩ご飯の準備をして、合間にこの記事を書いていると、買い物でやたらへばりつくように寄り添うように引っ付いてきた人たちが、買い物のあとには「輪廻の闇にいる人たち」と思えた人たちが、観音菩薩の慈悲のもと、いまはまるで一本のくもの糸(芥川龍之介の短編小説)一人が一本のくもの糸で救われようとする人のあとを追ってはい登って来る地獄の人たちのようにも思えた。

 とすれば、こういう人たちから悪しき思いや病んだ気を受けても、夜の(買い物のあとの)気功の時に思ったこと(雑念妄想)と統合してみれば、自分のいますることをだけに進んでいくことが、けっきょくは、輪廻の闇を消し去り、悪しき思いや病んだ気の影響を受けないですむことになるのではと思えてきた。

 自分のいますることをだけに進んでいくことというのは、けっきょくは、過去も未来もない、いましかないということなのだ。




注:芥川龍之介の『蜘蛛の糸』という短編小説は、お釈迦様の自らの行為による(法の下の)どこか気まぐれな救済のように描かれているけれど、仏教では、地獄の人の救済をまかされているのは例えば観音菩薩(特に千手千眼観世音菩薩)である。

 あるいは地蔵菩薩。


『法華経(上)を買ってきた』(190701)


法華経は釈迦牟尼仏陀の説教に

無数の信者が霊鷲山におり




 序品をちらと見て、なぜか感動した。お釈迦様の説教に無数の信者が集まっている光景が圧巻であった。しかも仏陀の眉間からの光の先には、たくさんの御仏も顕現し、壮観というほかない。


 舞台になっている霊山は、霊鷲山で、じっさいにお釈迦様が多くの説教をした山である。ここは写真で見てもいかにも素敵な山である。


霊鷲山WIKIs.jpg



法華経はすごい聖者や御仏が

まるで五万といるので驚く



注: 先日ブックオフで法華経(上)を買ってきた。観音経のある(下)は買い増ししてもう三冊家にあったけれど、(上)はなかった。岩波ので全三巻、もちろんすでに全三巻は持っていたけれど、(上)108円であまりにも安いのでまた買ってきた。

 写真はWIKIから。
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『ストレスがたまってしまうのはこころのもちようも大きい』(190630夜)



私の人生はうまくいっている

マントラのように唱えていろよ



 気づかなくても、忘れていても、ここが自分の理想とする世界、自分の本来の世界とはちがうのだとどこかで感じていると、あんがいそれだけで人間は知らず知らずにストレスを溜め込んでしまうのだ。

 人間のだれが、「ここが自分の理想とする世界、自分の本来の世界」とリアルに日々感じながら生きていくことができるだろう。理屈ではそういい聞かすことができても、知らず知らず不平不満、怒り悲しみなどが芽生えるのは、この世の人間社会におぼれている証拠である。

 本来の自分がこの生に満足できていても、現実にはいつしか世界の、この世の苦悩をこころに映し、カルマに染まってしまったりするのだ。

 人間というのは、社会で働いてお金を稼いで、病や老いにも抵抗しながら、それを克服しようと努力し、ご飯の準備もし、夜はできるだけたくさん眠るようにも努力し、健康に事故にもあわず生きていかなければ、それだけであっさり滅びてしまう存在ではなかろうか。

 自分だけではない、世界の、この世の苦悩を追いやりながら。




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『休憩の新聞』(190623)

 日経新聞のなかで不意に現れる救いの瞬間。

190623hiratukaunkou修正.jpg




注:平塚運一作、「雲崗瑞雲、蒙彊」(日経新聞日曜版)。
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『一杯のコーヒーで休憩』(190514)

珈琲で想う菩薩の人の世を


弘法大師修法図西荒井大師より.jpg


 この北斎の絵は、
「(弘法大師空海が)法力をもって鬼(厄難)を調伏する様子が描かれている」ということになっているけれど、
 修行をする空海の心を読めば、
「一心に修行をする空海に(異界の)鬼がおそいかかり、そして背後右からやってきた犬こそは、犬が鬼の眷属となって(この世で)吠え立て(空海の修行を邪魔し)ている様子」(Superbird著より)である。


 買い物をすませこの社会を振りかえれば、幸せな人間を不幸にしようとする力が溢れている。社会が不幸な証である。

 不幸な社会では幸せな人間は迫害・攻撃の対象である。


 人ごみは病の気に溢れている。病の気は御仏や菩薩の世界によって癒される。(本来の)幸福な世界を取り戻すことができる。

 病にとって健康な気は目の敵である。かっこうの攻撃対象である。

 みんなが不幸になれば社会はよりいっそう不幸になる。それに気づいて行動できないのは、人間に知性がたらない証である。


注:絵は西新井大師・總持寺所蔵品より

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『生きるためにはカネがいるという宿命』(190318)



末法のカネの世界につながって

老いに気づけば真言があり



 この世の人間が老いるのは、一つには仏の世界から離れてカネの世界に染まってしまうからである。かといって、ひたすら仏の世界に繋がって生きていこうとすれば、この世はやはりカネがいるという矛盾。

 日経新聞くらい読んだりニュースに耳を傾けたりは必要とはいえ、それすらがすでにカネの世界を見つめることであり、あっというまにこの身はカネの世界の時間軸の中にあって、細胞を構成する素粒子からが永遠の喜びから死の悲しみに染まっていくのだ。



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『旅行から帰ってひさしぶりに考える』(190316)

 旅行から帰って二日目、下の階の人が夜じゅう洗濯するという異常なことが、とりあえずなくなっていたので、夜になると眠れるようになったけれど、朝六時とか六時半とかにはもう洗濯を始めるので、やはり寝不足である。

 豊橋へ帰ったり御殿場へ行ったりする前と比べればましになったので、本当にありがたいことで、御仏や神さま方には感謝の心を素直に表していたいと思う。

 きょうもきのう同様早く起きて外で寝て、それから気功をして帰ってきて、朝ご飯を昼近くに食べて静かだったので昼寝をして、それから少し散歩をし、戻って家の中の整理をしたりパソコンの棚を整理したりした。

 親父さんが飲んでいた薬のプリントアウトしたものが二枚出てきた。2015年に死んだことを思い出し、そのまえ(2012年)に何とかしようと思っていたのに、2012年で大学の先生になりたてで常識離れした大学という職場環境への適応力のなさがあったり、親父さんが疲れているのか、あとから分かったことだけれど、わたしの知らないところでいろいろ会社を含めてやり始めたせいで、豊橋へ帰っても二人で話す機会が減ってしまったことがあったりで、自分の好きなこと、親父さんの悪い足のことについてどうしたらいいかということを、好きにできなかったことがまた思い出された。

 親父さんも年だったので、自分自身でどうしようこうしようとしなかったのかと思ったけれど、よくよく考えれば、親父さんなりにいろいろ考えていたことと思う。ただわたしにはそういう相談は直接はなかったな。

 親父さんは天国で幸せにやっている。

 家族がどうだったら、わたしがどうだったらと、後悔はあるけれど、親父さんはいま幸せにやっているのだ、これが一番よかったのだと思うしかない。ことあるごとにこうして親父さんの死に関して後悔が頭をよぎるのは、自分の好きなことができていなかったことがもとにある。

 そしていま自分がこうして住環境が悪くて苦労していることも、もとをただせば自分の好きなこと(転居)をしようしようと何度も思って引越しをしてこなかった、できなかったことと重なるようでもある。

 ともに自分と周りとの関係で、思うようにならないということもできるのだ。

 俯瞰してみれば、この世に生きる人間は、およそ周りとの関係で、「こうしたらいい」と思ってもそれができないということが多いのではなかろうか。いわゆるこれがカルマというものである。

 人間はそれなりに皆自分の事に関しては賢くても、欲の積み重なったようなこの地上の世界では、身動きが取れないようになってしまっているので、世界は「平和」を望んでも平和な世界はなかなか実現しないのであろう。





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『御殿場に行く』(190312)

 生きていくためというより、貧困に耐えられない人たちの、違法行為がやたら目立つわたしの住む低所得者の団地。

 新聞では官僚から一流企業まで、「事なかれ主義」の結果なのか「順法意識の欠如」、見渡せば、古きよき時代の日本の清貧という思想も失われたさっこんの世情。

 これは未来に希望のない国の必然なのだろうか?


国中に貧しき人が広がって

順法意識もなくなりにけり



南無観世音菩薩
南無観世音菩薩
南無観世音菩薩

ブッダスヴァーハ
ブッダスヴァーハ
ブッダスヴァーハ

南無千手千眼観世音菩薩
南無千手千眼観世音菩薩
南無千手千眼観世音菩薩

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 雨ニモマケズ(宮沢賢治作)

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテイル
一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニワタシハナリタイ

南無無邊行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如來
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼佛
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩


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