『臨済和尚(禅師)はこういう人である』(200426)

 朝(もう昼近く)布団の中で臨済についておたずねすると、次のようにその人は言った。
「あの人はきょう書類を出しに行って、明日も行くことにし、あすもう一度行くことにした。そしたら日付がきのうになっていた」と。


注:日付がきのうになっていたということは、とわたしは思った。きょうが過去になっているということである。

 上にあるようなことは、意識の面においては十分に禅僧にはありうることで、やがてそれが物質的にもそうなることによって、仙人になるわけだけれど、臨済禅師がどういう体験をしていたかまでは確認しなかった。

 もう一度言うと、きょうの日付が気づけばきのうになってしまったということは、未来へきてしまったということである。


 なお禅宗は不立文字(師から弟子へ直接に悟りの内容を伝えること)を原則とする。




 なおこれを書いていて少しして気づいたことを歌にした。なおもちろん臨済録が残って現代のわたしが手にして読み味わうことができることはとても幸せなことで、深く弟子の方々には感謝している。



臨済の法は廃れて弟子たちの

臨済録は世に残りけり



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『いつの世も末法の世ということもできるのだろうけれど』(200410)

 さいきんそしてきょうも思ったのだけれど、若い人たちがふつうに勝手に偉そうなことをして人の平和を破壊し、世界を混乱に導いているのは、一つには、彼らがネットの世界で育ったことが大きいのではないか。

 やたら、パソコンもそうだけれど、スマホはとくに、
「利用者(消費者)の不利益を平気で自分たち(サービスを提供する側)の利益のために身勝手なことをする」。

 そのやり方は高圧的でまるで偉大な権力者とさえうつる。

 そこでは人の道にかなっているとは言えないようなことがまかり通っているといえる。

 国民は政府日銀(そして影の官僚)のすることを見ながら日々の暮らしを営んでいる。政府日銀(そして影の官僚)のすることも(寂しいながら)人の道にかなっているとは言えないことが多い、国民の意識のありように大きな影響を与えているけれど、それ以上に、若い人たちにとっては、スマホの世界が影響しているのではないか。



東から瑠璃光浄土が広がれば

西から無量寿光の広がりがあり




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『臨済録を読めば(示衆より)』(200403ころの夜のベッドで)

 臨済に臨済いわく菩提を問えば。


 菩提に実体はなく得る者はなし

 心は転変そのままに

 憂いも喜びも生じることはなし






注:これがわかった者は、
「菩提の境地を体現している」といえる。

 なお、菩提とは、
「仏の悟りの境地」である。

参考、岩波文庫『臨済録』p105あたり。

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『寝る前に法華経を数分ばかり』(200304深夜)

 法華経を読んでいて次々「さとり」に到達する、また次々仏(仏陀)が誕生する場面はいかにも、心が壮大で明るくなる。


法華経は次々「さとり」に到達し

次々仏になる人ばかり




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『法華経の方便品で明かされる仏陀の言葉の威力』(190817ころ~20)

 寝床で寝る前に読むせいか、何度も読まないと複雑である。とにかく、よくいわれているようなことがまちがいなく疑いなく、みんなの前で起きるのだぞという話があって、仏陀は詩を唱えるのである。

 こうして以心伝心、仏陀の前で縁あって話を聴くことのできるものは、みんなすべて悟りに到達してしまうのである。



法華経や仏の威力偈一頌



 たとえばの話、法華経の中で仏陀は、
『お前たちは未来において人々の幸福を願い、人々を憐れむ仏となるであろう』という。
 これを聞いたものはみな喜びの花が開く。おそらくこれが絶大なる以心伝心の始まり発端、一つのみそである。

 そして、
「この広大な教えを説いた経典を広めよう。この経典を聴いた人は仏の弟子である。この頌(偈ともいう)の一つでも心に留めるものはすべて悟りに到達すること疑いがない。」という。

 仏陀は韻文(日本語訳によっては漢詩)でもって(詩の)頌(じゅ)を唱える。言語を絶する悟りの言葉である。






注:頌(じゅ)、偈、偈陀、すべてサンスクリト語のゲーダ。(梵)gāthāの訳。
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『法華経を読めばこの世は仏国土』(190814)

 法華経方便品を読めば、地上は過去も未来もまるで仏国土。

 仏教でよくいわれるのは末法の世という思想(末法思想)である。いまはもちろん「釈迦の死後1,500年(または2,000年)以降の時期」であり、いわゆる「末法の世」といわれる。「仏の教えのみが存在して悟りに入る人がいない時期のこと」である。

 ところがしかしながら法華経(方便品)を読めば、(未来において)完全なる悟りに到達した過去からの無数の如来はこの世間を憐れみ、教えを説き、この世の人たちは親しく正しい教えを聞き、なんと、すべてこの上なく完全な悟りに到達するというのである。


末法といえども無数の仏の世



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『法華経上巻を読む』(190806)

 法華経は過去二回は読んで、下巻には観音経があるので、何度か読んだ。今回(先日書いたとおり)上巻を買ってきて、序品をよく読んでいる。

 上巻は久しぶりなので、こういうことが書いてあったのか、なんて初心者みたいな発見がある。


法華経や仏の光如来の世



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『晩ご飯の買い物をして帰る道(闇に気づいて帰る夜の道)』(190712)


買物は輪廻の闇の人たちに

気づいて帰る夜の道かな



 夜になって家で晩ご飯の準備をして、合間にこの記事を書いていると、買い物でやたらへばりつくように寄り添うように引っ付いてきた人たちが、買い物のあとには「輪廻の闇にいる人たち」と思えた人たちが、観音菩薩の慈悲のもと、いまはまるで一本のくもの糸(芥川龍之介の短編小説)一人が一本のくもの糸で救われようとする人のあとを追ってはい登って来る地獄の人たちのようにも思えた。

 とすれば、こういう人たちから悪しき思いや病んだ気を受けても、夜の(買い物のあとの)気功の時に思ったこと(雑念妄想)と統合してみれば、自分のいますることをだけに進んでいくことが、けっきょくは、輪廻の闇を消し去り、悪しき思いや病んだ気の影響を受けないですむことになるのではと思えてきた。

 自分のいますることをだけに進んでいくことというのは、けっきょくは、過去も未来もない、いましかないということなのだ。




注:芥川龍之介の『蜘蛛の糸』という短編小説は、お釈迦様の自らの行為による(法の下の)どこか気まぐれな救済のように描かれているけれど、仏教では、地獄の人の救済をまかされているのは例えば観音菩薩(特に千手千眼観世音菩薩)である。

 あるいは地蔵菩薩。


『法華経(上)を買ってきた』(190701)


法華経は釈迦牟尼仏陀の説教に

無数の信者が霊鷲山におり




 序品をちらと見て、なぜか感動した。お釈迦様の説教に無数の信者が集まっている光景が圧巻であった。しかも仏陀の眉間からの光の先には、たくさんの御仏も顕現し、壮観というほかない。


 舞台になっている霊山は、霊鷲山で、じっさいにお釈迦様が多くの説教をした山である。ここは写真で見てもいかにも素敵な山である。


霊鷲山WIKIs.jpg



法華経はすごい聖者や御仏が

まるで五万といるので驚く



注: 先日ブックオフで法華経(上)を買ってきた。観音経のある(下)は買い増ししてもう三冊家にあったけれど、(上)はなかった。岩波ので全三巻、もちろんすでに全三巻は持っていたけれど、(上)108円であまりにも安いのでまた買ってきた。

 写真はWIKIから。
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『ストレスがたまってしまうのはこころのもちようも大きい』(190630夜)



私の人生はうまくいっている

マントラのように唱えていろよ



 気づかなくても、忘れていても、ここが自分の理想とする世界、自分の本来の世界とはちがうのだとどこかで感じていると、あんがいそれだけで人間は知らず知らずにストレスを溜め込んでしまうのだ。

 人間のだれが、「ここが自分の理想とする世界、自分の本来の世界」とリアルに日々感じながら生きていくことができるだろう。理屈ではそういい聞かすことができても、知らず知らず不平不満、怒り悲しみなどが芽生えるのは、この世の人間社会におぼれている証拠である。

 本来の自分がこの生に満足できていても、現実にはいつしか世界の、この世の苦悩をこころに映し、カルマに染まってしまったりするのだ。

 人間というのは、社会で働いてお金を稼いで、病や老いにも抵抗しながら、それを克服しようと努力し、ご飯の準備もし、夜はできるだけたくさん眠るようにも努力し、健康に事故にもあわず生きていかなければ、それだけであっさり滅びてしまう存在ではなかろうか。

 自分だけではない、世界の、この世の苦悩を追いやりながら。




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『休憩の新聞』(190623)

 日経新聞のなかで不意に現れる救いの瞬間。

190623hiratukaunkou修正.jpg




注:平塚運一作、「雲崗瑞雲、蒙彊」(日経新聞日曜版)。
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『一杯のコーヒーで休憩』(190514)

珈琲で想う菩薩の人の世を


弘法大師修法図西荒井大師より.jpg


 この北斎の絵は、
「(弘法大師空海が)法力をもって鬼(厄難)を調伏する様子が描かれている」ということになっているけれど、
 修行をする空海の心を読めば、
「一心に修行をする空海に(異界の)鬼がおそいかかり、そして背後右からやってきた犬こそは、犬が鬼の眷属となって(この世で)吠え立て(空海の修行を邪魔し)ている様子」(Superbird著より)である。


 買い物をすませこの社会を振りかえれば、幸せな人間を不幸にしようとする力が溢れている。社会が不幸な証である。

 不幸な社会では幸せな人間は迫害・攻撃の対象である。


 人ごみは病の気に溢れている。病の気は御仏や菩薩の世界によって癒される。(本来の)幸福な世界を取り戻すことができる。

 病にとって健康な気は目の敵である。かっこうの攻撃対象である。

 みんなが不幸になれば社会はよりいっそう不幸になる。それに気づいて行動できないのは、人間に知性がたらない証である。


注:絵は西新井大師・總持寺所蔵品より

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『生きるためにはカネがいるという宿命』(190318)



末法のカネの世界につながって

老いに気づけば真言があり



 この世の人間が老いるのは、一つには仏の世界から離れてカネの世界に染まってしまうからである。かといって、ひたすら仏の世界に繋がって生きていこうとすれば、この世はやはりカネがいるという矛盾。

 日経新聞くらい読んだりニュースに耳を傾けたりは必要とはいえ、それすらがすでにカネの世界を見つめることであり、あっというまにこの身はカネの世界の時間軸の中にあって、細胞を構成する素粒子からが永遠の喜びから死の悲しみに染まっていくのだ。



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