『きょうで前期の授業は終わる』(180726)

 うちの学校は人間教育というものがない。専門などの教科を教えてそれでおしまいで、教育を標榜するうちの大学だけれど、実際身近な先生から聞けば、教育よりも研究中心と思っている。

 むかし、「中京大の学生を見たら逃げろ」という標語みたいのがあったけれど、昨今中京大学の学生を見たら逃げろということは聞かなくなった。いい先生が集まっているとか、給料が(うちなんかより)いいとか、学生の質が高くなったことが大きいだろうけれど、人間教育のない大学はこれからダメになるだろう。

 またきょうでわたしの前期の授業は終わるけれど、最後に気づいたのは、年がら年中じゃないけれど、ずう~っとマスクをしている生徒は、たいがい柔軟剤の香料や、抗菌剤のにおいをぷんぷんさせている生徒だ。

 自分の生徒にはいろいろ言ってきて、なぜか最後の授業ではそれらがなくなったけれど、このところの猛暑酷暑でキャンパスではまたマスクをする生徒が増えた。やたら体臭が気になるようになったせいであろうけれど。

 体臭が気になるからといって安直に化学の知識がないことから柔軟剤の香料や、抗菌剤を使うのだ。ということで化学の知識がなくて健康に配慮する余裕のない人間は不幸である。

 自分の生徒(一人)を含め、柔軟剤の香料や、抗菌剤のにおいをぷんぷんさせている生徒が出てきて、そういう生徒はおおよそみんな体調が悪い。

 人間教育の欠如とマスクをしている生徒が多いということは相関関係があるかもしれないなということだな。




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『日本はどんどん暑くなるようだ』(180723)

 急も仕事で出かけていく。昼前の出勤で、いつもより三時間近く遅れたけれど、その分暑いといえる。月曜なのでいくらか疲れは取れている。しかし慎重に出かけていく。


 いかにも、こういう空が暑い空である。

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 小学校では数人、遊んでいるのか運動しているのか、駆ける姿が見えた。

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 学校ではいろいろと問題があることがよく分かった。まだ定年を前に辞職してしまう人もいるし、やるべきことをやっていないことが目立ってしまった先生もいたし、どちらにしてもなんだか下っ端の素直な屁理屈が嫌いな人間からすると不可解で理解できないようなことが垣間見えた、それが日本社会というものだろうか。大学もまるで企業と同じである。

 いっぽうで優しい先生もいて、心あたたまる部分もあった。庶民が生きる支えだろうか。

 帰り道。月を見る。

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 きょうの(名古屋の)最高気温は何度かな。埼玉では41度を超えたというけれど。

 きょうはずうっと風が強い。


仕事終え風に吹かれて月が見え

酷暑疲れの体が歩く



注:気象庁のHPでは名古屋の最高気温は39.6度。気温分布を見ると、高値停滞である。日本の最高は熊谷41.1度だ。
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『通勤』(180607)

 きょうは晴れた。

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 もっといい空があったけれど、信号があって地下鉄の時間もあるので、ゆっくり見ていられないのだ。

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 学校前で咲く昼顔は、雨上がりの美しさ。

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 学校に着くとまず図書館へ行く。昼休み前なのですいているのだ。

 新聞を読んで外は、キャンパスは昼休み、大量に湧き出て来た学生を尻目に、スズメは彼らの昼ご飯のおこぼれに与る戦略である。

 そんな行動を知られれば、観察者の目を気にしてベンチの下に隠れるのだ。

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『理科の先生の思い出から(仮題これはエッセイです)』(171023~4)


 やはり人生でまず影響を受けるのは両親、次は学校の先生ではなかろうか。もしかしたら両親よりも学校の先生のほうが子供に与える影響は大きいかもしれない。しかしおもちゃ代わりにスマホを与え、スマホ中毒的な若者やその親がいることからすれば、社会の影響といったほうがより正確だろうか。

 さいきん仕事柄目立つ生徒といえば機械みたいな生徒である。問題を解く作業を機械のように進めていく。機械みたいというのはこころに遊びがないといったらいいだろうか。たとえば落下運動の時間が落下距離と重力加速度gにのみ依存して、「物体の質量には左右されない」という結果を得たとする。しかしそのことに何の感動もなく、ただ動きを止めた機械のように、そんな感じを受けるのだ。答えを得て結果を楽しむこともなければ、答えを得る過程を楽しむこともない。すなわち自分の今取り組んでいる問を自然科学の境地から見ていないのだ。
 解き方だけひたすら身につけるわけだ。受験戦争の時代ならまだしも大学生でこういう生徒が目立ち始めることは不気味ですらある。
「ハトの羽も10キロの鉄アレーも距離が同じなら同時に落ちることに驚かない?」
「ええ。当たり前だと思っています」

 理科の先生ということで、わたしの経験で印象に残っている先生はと聞かれれば何人かいるけれど、中学高校でいえば中高各一人、中でも中学校のその理科の先生は忘れられないものがあった。
 その先生は授業に来て挨拶をすませると、前置きなどなくにこやかに黒板に重要な語句を二三個大きく板書し、
「きょうは教科書の何ページから何ページまで読んでこれを理解しろ」と言ってもう何も喋らなかった。
 あとはにこやかに教室内を歩き回っているだけである。毎時間がその繰り返し。立派である。
 生徒が集中力が途切れて話し始めたりすると、
「ちゃんと教科書を読んで理解しろ」とか、
「もう教科書は読んだのか?」などと時には注意した。
 一回の授業で一二回あるかないかのそれが説教といえば説教である。わたしはこの先生が好きだった。教科書というのは全国の優秀なそして経験豊かな先生方が、知恵を絞り、いかに分かりやすく理科という教科の中身を習得させるか、自然科学のエッセンスを生徒に伝えるかを考え考えて、しかも年を重ねて改版を重ね出来上がってきた、いわば日本の理科教育の集大成のような本である。いま思えばけっきょく下手に現場の経験未熟な先生がいらんことを喋らんほうがいいのである。
 この先生はそれを分かっていたのかもしれない。それはともかく、陰ではほかの先生方から職員室などで、
「なんであんな偉い先生がこんなところで先生やってるんだ」などとうわさされていた。
 実はこの先生は京大の理学部出身で世間では、
「京大出て何で田舎の中学の先生なの?」みたいな感じだったのだろう。
 当時のわたしにはそれは知りえない大人の論理である。当時のわたしになってわたしなりに考えてみれば、
「何が偉いのか?」それは、
「何も喋らないから偉いのだ」である。
 そして今気づくことはこの先生は、自分が黒板に書いた重要な語句の意味をきっと誰よりも深く明快に理解していた。だからわたしはこの先生が好きになったのだと思う。

 一方次に高校時代の印象的な先生は、理科(化学)でかつ教頭先生で、世間では偉い先生だった。しかしこの先生は、授業中やたら次々と駄洒落で生徒を笑わせ、試験前には試験に出る問題を教えてくれてしまうという、これまたにこやかな先生で、特に受験校だった時習館高等学校では珍しくレベルの低い先生だった。それでも大方の生徒にはこれが受けて人気があった。しかしわたしは何一つ面白いとは思えず、時には憮然としていた。

 自然科学はセンスである。センスは以心伝心である。教科書の法則や練習問題などはおそらく過去のもので見方が変われば一変するだろう。教頭先生の化学はただ暗記して問題を解くだけで過去の遺物のように感じられた。

 教科書の法則や練習問題などに命を吹き込み未来につなぐのは先生のセンスである。教科書の法則や練習問題などは理科教育の道具といえるだろう。田舎中学の何も喋らない先生は教室内を歩いているだけであった。しかしわたしはそんな先生を時に気にしながらも教科書を読み、勝手に自分なりに理科の内容を深く明快に理解したような気がして、静まり返った当時の古びた木造の教室で満足感を得ることができた。

 学校の先生はおそらく誰しも完璧ではない。しかしわたしの経験からいっても、今述べたセンスのようなものはある。たとえば目の前の生徒に、ある法則などの解釈や練習問題の解き方の手順などで質問したとき、わたしが深く明快にそれを理解していれば、以心伝心的にそれは伝わって、生徒は正しい答えを導くことができる。こうした経験はベテランの先生方には大なり小なりあるものである。先生が間違っていれば生徒も分からなくなってしまう。逆に生徒が間違った知識にとらわれていると生徒はたくさんいるのでしばしば先生も分からなくなってしまう。そういうこともある。そういう時は、先生は一度無になって、一から法則などの解釈や練習問題の解き方の手順などを構築しなおす。すると不思議と生徒はみんなあらかた理解できてしまう。以心伝心である。

 師というのは以心伝心的に自然科学のさまざまな道具を使ってとらわれのない境地を伝えることのできる存在である。法則などの解釈や練習問題の解き方などは仏教でいう方便にすぎない。新しい発見や発明はどこからくるだろう。とらわれのない自由な境地を習得させることこそ理科教育の大切な点である。人間である教師は未熟ながらそういう存在に向かって自己研鑽するべきだと思う。自然は自由である。こういうことを口にすると身勝手な非社会的な人間ができてしまうのではと危惧する声も聞かれるけれど、古の仏教の師は自由な境地(禅では本分の田地ともいう)に入れば、戒律(守るべき道徳のようなもの)はおのずと具現すると断言している(注)
 すなわち散歩しながら瞑想することも立派な教育者としてのお勤めである。



注:夢窓禅師はこのようにおっしゃっておられる。
posted by superbird at 17:48Comment(0)学校

『キャンパスに到着して早々に思ったこと』(171019)

 大学というところは人間形成という面では全く教育がないといっていい。学生たちの無礼は目に余るものがある。とはいうものの、振り返って考えてみると、これは社会全体に共通のことでもある。

 ただ大学では、
「人間形成という面では全く教育がない」ということは、先生に向かって尊敬も敬意もなく、無礼な態度でキャンパスなどを歩き行動して、それでいいということだから、それでは、
「(学生よ)お前たち落ちる奴は勝手に落ちていけ」という世界である。

 高校とはちがうところである。

posted by superbird at 12:22Comment(0)学校

『先生に苦労はつきものである』(170522)

 先生というのは案外知らず知らず「偉いのだ」と錯覚しがちである。自分というのは案外「他人よりすぐれている」と思い込んでいたりする。

 生徒は理解力がいま欠けていると思っても、それは必ずしも「先生より劣っている」わけではないし、他人の欠点はよく目に付くといっても、「自分より劣っている」わけではない。


ミスをして自分も並みの人間と

同じと悟ればやさしくもなり


posted by superbird at 23:56Comment(0)学校

『センター試験も春のおとずれ』(170115)

 きのうきょうとセンター試験にあわせるように寒波がやってきた。名古屋も2センチの積雪だ。
「センター試験を襲う大寒波」(日本経済新聞)などと謳われていた。

 一方で、名古屋では寒さに耐えた梅が三分咲き。





寒波にもセンター試験の積雪は

早春告げる紅白の梅


posted by superbird at 00:29Comment(0)学校